「子供を学校に合わせる」という思考をまず捨てること

政府の学校を離れ、フリースクールやホームエデュケーションなどで子供に教育を受けさせるときに最も大切なのは親の理解です。

 

 

親がまず最初に子供を既存の学校教育に合わせるという発想を捨てて、子供をありのままで成長させるという思考になることが必要不可欠です。

 

 

学校に合わせるべき理由など存在しない

 

 

まず第一に、これは本当に大切なことなので強調しますが、すべての人間にはそれぞれ異なった人格・能力・適正・価値観・目的などがあります。

 

 

そして、人間は歳月を重ねる中で自分自身の目的や将来の理想などに応じてどんなことを学び、どんな道に進むかを個々人の意志によって決めていくわけです。

 

 

これは基本的に誰かに強制され、管理されて身につくものではないと考えるのが自然だというのが私の考えです。

 

 

例えばですが、人間以外の動物を例にとって考えてみましょう。

 

 

ウサギは走ることが得意で、リスは木登りが得意です。そして魚は泳ぎがとても上手で、鳥は飛ぶことに特化している生き物です。

 

 

これはそもそもとして誰かから強制されて身についたわけではありません。

 

 

自然界の一員というのは、必ず個体差があるのが当たり前なのです。

 

 

 

ウサギは陸を走ることは得意でも、リスのように木登りができるわけでは無いでしょう。同じようにリスはウサギほど走りが上手いわけでもありません。

 

 

魚は泳ぎが上手いですが、陸はとても苦手(というか無理)です。そして鳥は飛ぶこと以外は優れているとは言えないかもしれません。

 

 

それでも、ほかの動物と比べてできないことがあるからといって、誰もこうした動物たちを否定的に見る人はいないと思います。

 

 

「あのリスは駄目な動物だな〜」
「ウサギは空も飛べないでやんの!」
「魚は木登りできてないし」
「鳥は空飛ぶ以外無能なのか?」

 

 

・・・などという人はいないと思います。

 

 

それはなぜかと考えれば、動物の個性というものを誰もが認めて尊重しているからではないでしょうか。

 

 

人間も同じことで、ある人にとっては簡単にできても、別の人にとってはすごく難しく簡単にできるようなことではないことは人間だれしもが抱えているのが普通です。

 

 

しかし、学校はそうではありません。学校の決めたことが一律(いちりつ)にできないのは変でおかしいという評価を下すのです。

 

 

例えるならば、全員がみな走ることも木登りも、水泳はおろか空を飛ぶことさえも一定以上はしっかりできるようになりなさいと強制されるのです。

 

 

私はどう考えてもこれはおかしいと思うのですが、いかがでしょうか。

 

 

誰もが上手く漢字を覚えられるわけではありませんし、みんながみんな同じ体力を持っているわけではありません。

 

 

個々の違いがあるのが当たり前なのに、教師が決めたことができないのは恥ずかしいことだと一方的に判断されるのは正当なことではないと考えてもいいはずです。

 

 

それぞれが輝ける分野・持てる力を発揮できる場所は違っていいという考えをまず親がしっかりと持って下さい。

 

 

そして、政府の学校とはあくまでも通いたい子供だけが本来通うべき場所なのだということを強く認識しましょう。

 

 

日本ではまだまだ政府の学校至上主義が根強く、学校に合わせられない子供をわがままだとか性格的に問題があるなどと非難する傾向が強いものです。

 

 

しかし、集団で多人数一斉の授業が好きだという人もいますし、逆に集団に属することをすごく嫌う人だって存在するのです。

 

 

政府の学校教育(義務教育)というのは、子供たちが教育を平等に受ける権利を社会的身分や経済的理由などで喪失させないための1つの選択に過ぎません。

 

 

それが義務教育という言葉から政府の学校への通学義務と誤解され、学校に合わせなければならないという考え方しかできない人々で溢れかえってしまったのです。

 

 

大切なのは一人ひとりが安心して、なおかつ最も納得ができる環境で学び成長できる環境を大人側がしっかりと用意することだと私は考えています。
 
 
そしてなによりも大人側が保護する子供の目線に立ち、学校を絶対的な通過点ととらえることなく個人の1つの選択肢に過ぎないということをしっかりと教えることだと思います。


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