なぜ学校・教育委員会などの体質は変わらないのか

自殺事件などが起きても、学校や教育委員会などの関係者たちがこうした事件を黙殺して隠蔽するということは珍しくもなんともないことです。

 

 

その最大の原因は学校の利益を最優先として、児童生徒らの生命の安全などを軽んじていることだと私は考えています。

 

 

学校は一体誰の為の場所なのか

 

 

まずこうした事件というのは、言うまでも無く学校という組織の中で起きていることです。

 

 

いじめ自殺などが発生

教師や教育委員会が事件を黙殺

被害者の親族などが猛抗議

警察などが場合により介入し、ようやく真実が判明

教師や委員会の人間が処分される

 

 

・・・全て学校の中で発生し、そして関係者らが何かと自殺の真相などを全く外部に公表しようとせず、隠蔽しようとするのです。

 

 

こんな馬鹿げたことが日本全国の各地の学校で起きているということが悲しい事ですが実態なのです。

 

 

こうした現象がなぜ起きてしまうのかということを私自身色々と考えてきましたが、これは結局学校関係者らが自分たちの利益しか考えていないからだと思うのです。

 

 

言うまでも無い事ですが、そもそもとして政府の学校(義務教育制度)というのは国家間の経済競争や侵略戦争に勝ち抜くための駒を大量に生み出したいという国の都合で始まった制度です。

 

 

人々の自由意志を放棄させて、言われた事・命令されたことに黙って従うイエスマンを生み出すというのがその本質だということは言うまでもありません。

 

 

そのための単純な人間の生産工場である学校組織の中で、子供の人権や利益というのは運営する人間らからすれば邪魔な存在以外の何者でもないのです。

 

 

学校の方針やカリキュラムに反対し、命令に従わない人間ばかりが出てきてしまえば学校という組織は維持出来なくなります。

 

 

だからこそ、学校という組織に子供はみんな従わなければならないという洗脳を日本でも長期間を通じて散々施してきたのです。

 

 

その結果、今では学校に行かないという子供はわがままだとか協調性が無い人間だなどと非難されていることが何よりの証拠です。

 

 

ですが、このようないじめ自殺などが起きている学校の中で社会性というものが育っているなどと考える方がそもそも無理があると考えるべきです。

 

 

学校に通っているというだけで、何も学んでいない人間は事実山ほど存在します。

 

 

他者の苦しみや相手の立場を考えられず、想像する力が欠如しているような人間が健全だと考えるのはどう考えても無理があるのではないでしょうか。

 

 

そして、事件が起きてもそんな加害者の人間を平然とかばい立てし、事実の隠蔽・抹殺などに加担する教師や教育委員会などは不要というレベルだと考えてもいいでしょう。

 

 

学力の定着や健全な人間育成などという大義名分を掲げても、こうした犯罪の共犯となっているような学校関係者らには上から目線で教育するような権限などあるでしょうか?

 

 

自殺が起きれば自分たちの学校や管轄の教育委員会の名誉に関わるから公表しないなどという馬鹿げた現象は、まだまだ続くでしょう。

 

 

無価値ならば離れればいいはず

 

 

本来であれば学校というのはあくまでも当事者である子供が価値を感じられるかどうかというのが最大の問題点ではないでしょうか?

 

 

学校という組織の運営方針や授業内容などに意味を見出せる人は行けばよく、無意味だと思う人は登校せず自分なりのやり方で教育を受けるというのが自然で真っ当です。

 

 

そうした権利・選択肢というものを社会全体でしっかりと当事者である児童生徒らに認知させるということが日本は本当に希薄です。

 

 

どんなに馬鹿げた学校でも、とりあえず通学する事が正義になっているのは異常なことなのです。

 

 

いじめ自殺がおきても、事件の真相究明・情報公開を真剣に行わず、消し去ろうとする学校などに通学する価値があるでしょうか?

 

 

私は全くそのような価値は無いと考えます。


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