いじめの定義

いじめとは何かという定義ですが、明確には位置づけられていないのが実情です。

 

 

しかし、分かりやすく突き詰めるならば、他者が不快に感じて苦痛になるようなことを行い、不当な扱いをすることは全てがいじめと呼ばれるものになるのです。

 

 

政府の定義ではなく個人の定義を

 

 

このいじめという謎の言葉は、とにかく誤解を招いたり色々な議論の対象になっています。

 

 

文部科学省などの過去の定義では、

 

 

「自分より弱い者に対して、身体的・精神的な攻撃を継続的に加え、相手が深刻な苦痛を感じているもの。なおかつ、学校でその存在を認識しているもの。なお、起こった場所は学校の内外を問わない。」

 

 

・・・というのが過去の定義でした。

 

 

平成18年度からは大分変わりまして、

 

 

「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的・物理的な攻撃を受けた事により、精神的な苦痛を感じているもの」

 

 

という新しい定義に切り替わったわけです。

 

 

私個人が思う事として、文科省などの国の上層部の人間らの定義はどうでもいいと考えています。

 

 

また、過去の定義においては特に心底馬鹿げた定義というものをしていたものだと私は考えています。

 

 

自分より弱い者に対して継続的な攻撃を加えると書いてありますが、そもそもここが最大の問題点だと言えるのです。

 

 

いじめ問題を語る際に、テレビなどのメディアでもよく変な有識者などが

 

 

「人間も所詮は動物であって、弱肉強食の世界で生きている。だから被害者が弱いからいじめが起きるんだ」

 

 

などという馬鹿げたことを平然と話している人も稀にいるのですが、驚きを隠せません。

 

 

いじめの定義を持ち出して、結局は加害者を擁護するような発言を堂々としている人間が大勢いること自体が遥かに問題なのです。

 

 

文科省の過去の定義にしても、

 

 

「弱い者に対して」ということを書いて、被害を受ける側が弱者だから悪いなどというおかしな構図を作り出していたのです。

 

 

全く現場を理解していないどころか、被害を受けて苦しんでいる人々を更に差別し苦しませてしまう原因を生み出していたのですから、愚かにも程があると言えるでしょう。

 

 

被害者が加害者に抵抗する意思や、告発して解決・助けを求めるなどの活力奪っているのはこうした馬鹿げた風潮を作り出してしまった国やメディアの責任も大きいのです。

 

 

被害者の立場になればよく分かることですが、自分は弱者だからいじめを受けるんだと言われ続ければどうなるでしょうか?

 

 

「自分が無力だからいじめられるのか」
「弱者だからもう逆らえない」

 

 

このような無意味な劣等感を持たせてしまうことになるのは明白です。

 

 

したがって、国の定義がどうであるかなどは全て忘れましょう。

 

 

大切な事はいじめという犯罪行為の被害を受けている被害者がどう感じて苦しんでいるかであって、定義などどうでもいいのです。

 

 

周囲の人間が

 

 

「いじめを受けていても、何てこと無いだろ」
「そのくらい我慢しろよ」
「別にどこに行っても似たようなことはあるって」

 

 

・・・このようなことを言い続けても、それは上から目線の他人事です。

 

 

被害者の苦しみの度合いが外野の人間に分かるでしょうか?

 

 

どんな仕打ちをされているのかを本当にそうした人間らは理解しているでしょうか?

 

 

理解していたとしても、助けを差し伸べてくれるでしょうか?

 

 

全て殆ど他人事で、何もしてくれなければ理解もしていない人間ばかりだと思うのは私だけではないはずです。

 

 

重要なのは肉体的あるいは精神的に、悪意を持って他者に危害を加える意思のある人間から被害を受けているかどうかということです。

 

 

もしここでそうした馬鹿な人間から危害を加えられていると感じている人がいるのであれば、それはもう立派ないじめと呼ばれる卑劣な犯罪なのです。

 

 

定義がどうこうというと、ややこしいですし何よりも議論だ何だと不毛な展開になってしまいますので私はここで明確に書き記しておきます。


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